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中国茶の歴史

中国でお茶に関する伝説として語り継がれている最も古いものは、
“神農”と呼ばれる農業の神様にまつわるものです。
“神農がお湯を飲もうと木陰で休んでいると、舞い落ちてきたお茶の葉が、偶然にお湯の中に入ってしまった。
しかし、そのお湯が素晴らしい味と香りだったことから、以後お茶が飲まれるようになった。”

しかし、神話の中の話であり、事実は定かではありません。
歴史的な史料が乏しいため、実際にお茶を飲み始めた時期というのは、現在も確定されていません。

お茶に関する資料として最も古い物は、漢代、紀元前59年に王褒(おうほう)によって記された奴隷売買契約書の中にある
「武陽買荼(武陽で茶を買う)」で、『荼』の字が見られます。
その他に、紀元前1世紀頃に書かれた医学書『神農本草記』にも記述が残されています。

三国時代(220~280年)以降、お茶は次第に嗜好品として、主に上流階級の人々に愛飲されるようになりました。
南北朝時代には、南朝で『茶菓』(茶と木の実)という言葉が現れ、客人を、酒食でなく茶菓でもてなしていたといわれています。

唐代(618年~907年)になると、お茶を飲む習慣が中国全土へと広がりました。
この頃のお茶は、茶葉を粉々にし、小さく固めて乾燥させた固形茶が主流で、『餅茶』と呼ばれていました。

そして、茶聖といわれる【陸羽】が書いた本『茶経』により、お茶の製法・飲み方などが明確化されました。
この書物は、中国だけではなく、世界各国の製茶業界にも多大な影響を与えたといわれ、
お茶のバイブル的存在とされています。

宋代(960年~1279年)には、市民階級が台頭してきたことで、
お茶の飲み方や茶器にも新しい工夫や変化が見られるようになり、
日本の抹茶のような飲み方も登場しています。

元代(1206年~1368年)には、北方の遊牧民であるモンゴル族が開いた王朝で、
移動に便利な固形茶(緊圧茶)が発達しました。

明代(1368年~1644年) になると、初代皇帝である洪武帝(朱元璋)が、
お茶本来の味を損なう固形茶の製造を禁止したため、本格的に散茶(葉茶)が製造されるようになり、
上流階級に限られていた喫茶の習慣が、庶民層にも広がっていきました。

その影響は茶器にも広がり、清代(1616年~1922年)には、お茶文化は最盛期を迎え、現在の中国茶葉や茶具がほぼ完成しました。
また、半発酵茶である烏龍茶が開発され、手間をかけてお茶を淹れる工夫茶器が考案されたのもこの頃です。
これにより、今の6大分類といわれる茶葉の種類もほぼ出揃いました。

台湾茶の歴史

第1次振興期

中国清朝時代の1796年、柯朝(かちょう)という商人が、大陸最大の烏龍茶産地である
福建省の武夷山から台湾北部に茶の苗木をもたらしたのが、台湾茶の始まりと言われています。
そしてその後、台湾中部の南投県にも福建省茶が植樹されました。

1840年に勃発したアヘン戦争は、台湾茶の歴史に少なかなぬ影響を及ぼしました。
この戦争は、中国からのお茶の輸入によって不平等な貿易を強いられてきた英国が、
インドで生産されたアヘンを中国に売り始めたために起こってしまったものです。

戦後、英国政府と清朝政府との間で結ばれた天津条約により、台湾の淡水港(台北県)と台南が開港されました。
それがきっかけとなり、台湾茶が海外に知られるようになったのです。

1869年には、台湾茶業の父といわれるスコットランドの商人ジョン・ドットによって、
『Formosa Tea』(フォルモサティー)のブランド名で北アメリカに輸出され、1872年には、英国への輸出も開始されました。

高品質の『Formosa Tea』はたちまち人気を博し、海外では『Formosa Tea』を飲むことが一種のステイタスとされていた時期もありました。

※<Formosa>というのは台湾の別称のことです。大航海時代だった17世紀に、台湾を発見したポルトガル人が、
その美しさに思わず「Ilha Formosa(麗しの島)」と言ったのが由来とされています。

しかし、その後、世界的な金融恐慌や戦争などの影響により、茶葉の価格が暴落し、台湾茶の輸出が停滞してしまいます。

第2次振興期

日清戦争後の1895年、台湾は日本の統治下に置かれることになりました。
日本政府は、台北に総督府を置き、製茶機械を導入したり、茶の検査機構を設立したりするなど、
茶産業の近代化を図ることによって、茶の品質を向上させました。
それにより、茶葉の製造量や輸出量が飛躍的に上昇していったのです。
しかしながら、日本の方針により作られるお茶は紅茶や緑茶が主流でした。

1903年には台湾北部の桃園県に茶製造試験場(現在の台湾省茶業改良場)が設立され、茶樹の研究や製品の運搬技術など、
お茶の品質を維持するためのさまざまな研究が行われてきました。

その過程で、それまで包種茶のように自由に曲がった形が主だった茶葉が、現在主流となっている、半円球形に変化してきました。

こうして、繁栄していった台湾茶産業ですが、1941年に始まった第二次世界大戦により、
今まで台湾茶を生産していた土地や労働力は食糧の生産に回されてしまいました。
そのため、茶葉の輸出も出来なくなり、台湾の茶業は衰退の一途をたどります。

高山茶の登場と、現代の台湾茶

1945年、第二次世界大戦が終わり、台湾は日本の統治から離れました。
そして、茶業の復興を重要事項の1つに掲げ、約10年の歳月をかけて茶葉の生産能力を回復させたのです。

紅茶の輸出についで、緑茶の輸出も再開され、この後1980年代までの期間、台湾茶は輸出の最盛期を迎えました。

その一方で、1980年代に登場し、またたく間に台湾茶の主流となったのが高山茶です。

高山の多い台湾において、標高1000m以上の産地で作られる台湾茶は、まさに国を象徴するお茶でもありました。
高い製茶技術に加え、産地開発も盛んに行われ、烏龍茶本来の香りを残しつつも新鮮な緑茶に近い味覚が人気を呼び、
台湾全土に高山茶ブームが到来したのです。

これに先だって、1975年から国の管理下で茶葉の残留農薬検査が実施されており、
違反をすると厳しい処分が下されるようになりました。

害虫駆除も、農薬を極力使わないように指導されており、減農薬栽培や有機栽培なども行う茶農も増え、
安全で高品質なお茶を産出する努力がされています。

1980年以降は、経済発展による生活水準の上昇などにより、お茶の輸出がだんだんと減少していき、
1990年には、総生産の75%が台湾内で消費されるようになりました。

現在の台湾では、生活水準の向上や健康志向などにより、茶葉への関心が高まってきています。
工夫茶と呼ばれる作法により高級茶を楽しむ習慣が広がっており、よりおいしく、より高級な茶葉が求められているため、
茶葉のレベルを上げるための産地や製法の研究も重ねられています。

台湾茶独自のお茶

台湾の気候はお茶の生育に向いていたため、各地でその土地ならではのお茶が次々と生まれていきました。
中でも、文山包種茶、凍頂烏龍茶、東方美人茶、木柵鉄観音茶など、中国にはない台湾独自のお茶は、
高い評価を受けて現在に至っています。